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霊山(りょうぜん)は、伊達市と相馬市にまたがってそびえる福島県の山で、標高は825メートルです。山肌から玄武岩質の岩峰がいくつも突き出していて、紅葉の見頃は例年10月下旬から11月上旬にあたります。登山口から岩場をめぐって戻る周回コースなら、2時間から3時間ほどで歩けます。
阿武隈高地の北部にあるこの山は、伊達市にとってシンボルのような存在です。岩峰に登ると、周りの山並みが見渡せます。
平安時代の859年に開かれたと伝わる霊山寺や、南北朝時代に北畠顕家がこもった霊山城など、歴史の舞台にもなった山です。

霊山の紅葉は10月中旬に色づき始め、見頃は10月下旬から11月上旬
霊山県立自然公園の木々は、例年10月中旬ごろから色を変え始めます。色がいちばん深まるのは10月下旬から11月上旬です。見頃を10月中旬から11月中旬とする紹介もあり、時期は気象条件で前後します。
紅葉の時期の霊山では、そそり立つ岩肌に色づいた木々が映えます。
全国の紅葉に目を向けると、2025年はウェザーニュースが、10月中旬まで気温の高い日が続いたせいで東北から九州にかけて色づきが足踏みしたものの、その後の朝晩の冷え込みで、多くの名所は平年並みか平年よりやや遅く見頃を迎えると予想しました。同社が12月にまとめた調査で、2024年には目立っていた見頃の遅れが2025年はおさまり、色鮮やかな紅葉になったとわかりました。
霊山紅葉まつりは2025年に11月1日から3日まで開催
紅葉の盛りに合わせて、ふもとでは毎年この時期に「霊山紅葉まつり」が開かれます。2025年の会期は11月1日から3日まででした。登山口の駐車場では、ふるさと物産展が開かれました。先着順の記念バッチの配布や、フォトコンテストもありました。有料で事前申込が必要な霊山縦走登山ツアーも組まれました。
会期や催しの中身は年によって変わります。出かける前に、りょうぜん紅彩館(りょうぜん振興公社)か伊達市霊山総合支所で確かめてください。
霊山の登山は登山口からの周回が基本で、所要時間は2時間から3時間
霊山の登山では、登山口を出て岩場をめぐり、同じ登山口へ戻る周回コースが代表的です。初心者や家族連れでも歩けるコースです。ただ、途中に分岐がいくつもあり、岩場も通るので気は抜けません。
山頂と五百羅漢岩まで回るコースは2時間57分
長めに歩くなら、山頂まで足を延ばす周回があります。登山口から日暮岩入口に進み、国司沢展望所、護摩壇、霊山城跡の順に通ります。そこから西物見岩に寄り道をして、霊山山頂と五百羅漢岩を回ってから登山口へ下ります。コースタイムは合計で2時間57分です。
こどもの村の北側から歩く約2時間のコース
もう少し短く済ませたい場合は、「りょうぜんこどもの村」の北側にある登山口駐車場を起点にした周回があります。区間ごとの歩行時間は次のとおりです。
| 区間 | 歩行時間 |
|---|---|
| 駐車場から日暮岩入口 | 20分 |
| 日暮岩入口から護摩壇 | 20分 |
| 護摩壇から西物見石・霊山城跡 | 15分 |
| 西物見石・霊山城跡から蟻ノ戸渡り | 15分 |
| 蟻ノ戸渡りから日暮岩入口 | 30分 |
| 日暮岩入口から駐車場 | 20分 |
表の合計は約2時間です。下山の途中で弁天岩や宝寿台に立ち寄る組み方もあります。
体力は5段階の1、技術は5段階の2
登山口を出て日暮岩入口、護摩壇、霊山城跡、蟻ノ戸渡り、弁天岩の順にめぐる周遊コースの評価は、5段階のうち体力レベルが1、技術的難易度が2です。
蟻ノ戸渡りや日暮岩など、霊山の岩峰はそれぞれに見どころがある
周回コースには、名前のついた岩場がいくつも組み込まれています。
蟻ノ戸渡りは、切り立った細い岩の尾根です。慎重に足を運ぶべき場所ですが、登山者の記録には、苦労せずに渡れたという感想も残っています。
弁天岩は、はしごを使って取り付く、せり出した岩場です。足場は悪いものの、上に立ったときの見晴らしは抜群です。
日暮岩は、周遊コースの最後に登る岩です。ここもはしごで岩の上に出ます。秋に登ると、紅葉越しに弁天岩や見下し岩が並ぶ眺めが見事です。夕方の光の中で見るのが良かったという登山者もいます。
護摩壇、霊山城跡、東物見岩の3か所からは、東の方角に太平洋を望めます。
東物見岩は標高825メートルで霊山の最高峰
霊山でいちばん高い地点は、標高825メートルの東物見岩(東ノ物見)です。吾妻山や安達太良山の方角も見通しがよく、相馬市側の景色も絶景です。山と溪谷の読者レポートでは、霊山城跡を過ぎて東ノ物見まで進むと、太平洋が見えるようになったと書かれています。なお、霊山城跡を山頂として記録している登山者もいます。
奇岩は約3,500万年前の火山活動から生まれた
霊山の岩だらけの姿は、約3,500万年前の火山活動から始まりました。玄武岩質の集塊岩が長い年月をかけて風化や浸食を受け、削られにくい火山岩だけが残ったのです。その結果、奇岩怪石がそそり立つ、いまの山の形ができました。
集塊岩とは、大小の岩の塊をたくさん含んだ火山砕屑岩をまとめて呼ぶ名前です。本来の意味は火山弾を含む凝灰岩ですが、その使い方はあまりされていません。古い時代の岩石では、岩の塊とまわりの凝灰岩を肉眼で見分けにくいことがあります。そのため、岩塊や火山弾を含む溶岩まで、ひとまとめに集塊岩と呼ぶ例が多いようです。厳密な定義はなく、この言葉を使わないほうがよいとする事典もあります。なお凝灰角礫岩は、主に火山灰に、直径32ミリメートル以上の火山岩塊が混じったものを指します。
霊山の登山口へは霊山飯舘ICから車で約5分
登山口まで行く公共交通機関はないので、マイカーで向かうのが一般的です。いちばん近いのは東北中央自動車道の霊山飯舘ICで、降りてから約5分で着きます。ただしこのICで降りられるのは、福島方面から来た車だけです。東北自動車道を使う場合は、福島西ICか福島飯坂ICから約50分かかります。
登山口の駐車場には80台ほど止められ、トイレもあります。料金は無料という記録があります。
霊山の登山には防水性のある登山靴と重ね着が基本
霊山の登山道は舗装されていません。岩場やはしごもあるので、足元は防水性があり滑りにくい登山靴を選んでください。サンダルのような軽装で登るのはやめましょう。
山の天気は変わりやすいものです。服装はベースレイヤーとミドルレイヤー、アウターを組み合わせて重ね着し、体温を調節します。飲み水と、栄養補給のための食べ物も持っていきます。
分岐の多い山なので、道迷いへの備えも要ります。岩場を通るコースでもあり、登山装備とあわせて、GPSアプリや登山地図アプリなどで地図を用意しておいてください。登山道を外れないことも大切です。登山道を外れた場所では、ごみが目につくという報告もあります。
霊山は859年に霊山寺が開かれてから山岳仏教の拠点になった
平安時代の貞観元年(859年)、慈覚大師円仁が南岳山山王院霊山寺を開いたと伝わっています。これが霊山における山岳仏教の拠点の始まりで、往時は「北の比叡山」とも呼ばれました。いちばん栄えた時期には、3,600人もの僧がこの山で修行していたという言い伝えもあります。もっとも、僧坊の数や規模については、縁起など後の時代に書かれた文書にもとづく伝承が大半です。
円仁による開山の話は、寛文5年にできた『霊山寺縁起』にもとづいています。山の中には、修験道の寺だった霊山寺の跡が残っています。
円仁は第三世天台座主で、日本初の大師号を受けた僧
円仁(794年から864年)は、下野生まれの平安初期の天台宗の僧です。15歳のときに比叡山へ入って最澄に師事し、838年には唐に渡りました。五台山や長安で学んだのち、847年に日本へ戻っています。唐で過ごした日々を書き残した『入唐求法巡礼行記』は、その頃の唐の歴史や社会を知る手がかりとして評価の高い日記です。
日本に戻ってからは延暦寺に修法道場を設け、854年には第三世の天台座主になりました。天台宗山門派の祖ともされる人物です。864年に亡くなり、その2年後に、日本で最初の大師号となる「慈覚大師」が贈られました。
修験道は山にこもる修行で悟りや霊験を目指す信仰
修験道は、日本古来の山岳信仰に、仏教や密教、道教などが結びついて平安末期に成立した宗教です。初祖は役行者(えんのぎょうじゃ)で、山にこもって厳しい修行を積み、悟りや霊験を得ることを目指します。
日本の神と、如来や菩薩、明王といった仏教の仏をいっしょに祀る神仏習合の信仰で、実践する人は修験者、または山伏と呼ばれます。「修」は苦しい修行、「験」はその修行で得られる効験のことです。室町時代に入ると、天台系の本山派と真言系の当山派の2つに分かれました。
1337年、北畠顕家が義良親王を奉じて霊山城に陸奥国府を移した
南北朝時代の延元2年(1337年)、霊山は南朝方の拠点になりました。この年の1月、陸奥国府の多賀城から退いた北畠顕家が、義良親王を奉じて霊山に入ります。顕家は霊山寺の山頂の伽藍を利用して城郭とし、多賀城から国府を移しました。これが霊山城で、南朝方の拠点であると同時に国府の役目も果たしていたとされます。
山頂付近には、いまも霊山城跡が残り、山中で城の遺構を見ることができます。登山者のあいだでも、この霊山城跡は奇岩群と並ぶ人気の見どころです。
北畠顕家は1338年に和泉で戦死した南朝方の武将
北畠親房の長男にあたる北畠顕家(1318年から1338年)は、公卿と武将の両方の顔を持つ、南北朝時代の人物です。叙爵は3歳のときで、12歳ごろにはもう従三位参議・左近衛中将の地位にあったとされます。のちに陸奥守となり、義良親王を奉じて奥羽へ下りました。
足利尊氏が反乱を起こした際、顕家はもう一度西へ攻め上り、尊氏を九州まで退かせました。その後、1337年8月に霊山城を発ってまた西へ向かい、翌1338年、和泉での戦いで命を落としました。
顕家を主祭神としてまつる神社は、明治時代に霊山神社と阿部野神社の2社が創建されました。2社とも建武中興十五社のひとつに数えられています。霊山には、霊山寺跡や霊山城跡に加えて、この霊山神社もあります。
義良親王はのちの後村上天皇
義良親王は後醍醐天皇の皇子で、のちの後村上天皇です。母は阿野廉子(新待賢門院)でした。南北朝時代の第97代、南朝では第2代の天皇で、在位は1339年から1368年までです。吉野で即位したあとも足利方に攻められ、各地の行宮を転々としました。最期を迎えたのは摂津の住吉です。
多賀城は724年に創建された陸奥国府
顕家が霊山へ移る前に拠っていた多賀城は、奈良時代から平安時代にかけて陸奥国府が置かれた場所です。平安初期までは鎮守府も同じ場所にあり、蝦夷に対する軍事政策を担っていました。朝廷が蝦夷と呼んだ人々を支配下に置くための軍事の拠点で、同時に陸奥国の政治を行う役所でもあったわけです。
創建は神亀元年(724年)です。多賀城碑に刻まれたこの年は、出土した瓦の状況とも合っています。多賀城碑そのものは762年(天平宝字6年)に建てられ、多賀城がいつ建てられ、どう修造されたかを今に伝える貴重な史料です。蝦夷の制圧が平安時代にひと区切りつくと、多賀城の役割は少しずつ小さくなりました。現在は国の特別史跡に指定され、大宰府跡や平城宮跡と並ぶ日本三大史跡のひとつです。
霊山は国の史跡及び名勝で、霊山県立自然公園の中心にある
霊山は国の史跡及び名勝に指定され、福島県が選んだ「ふくしま30座」の一座にも入っています。山を中心に、伊達市と相馬市にまたがる一帯が霊山県立自然公園です。
自然公園法に定められた地域制の公園を自然公園と呼び、種類は国立公園、国定公園、都道府県立自然公園の3つです。霊山県立自然公園は、このうちの県立自然公園にあたります。指定する人と管理の仕組みは次のように違います。
| 種類 | 対象となる風景地 | 指定 | 管理やルール |
|---|---|---|---|
| 国立公園 | 日本の風景を代表できるほど傑出した風景地 | 環境大臣 | 国が管理 |
| 国定公園 | 国立公園に準ずる風景地 | 環境大臣 | 許可などは県が担当 |
| 県立自然公園 | 国立公園と国定公園に入らない、すぐれた風景地 | 知事 | 都道府県の条例で保護と利用のルールを決める |
麓のりょうぜん紅彩館は1泊2食付き8千円から泊まれる
登山の前後に立ち寄れる施設として、霊山の麓にりょうぜん紅彩館があります。山小屋風の建物で、宿泊と日帰り入浴ができ、レストランで食事だけ取ることもできます。宿泊料金は1泊2食付きで8千円からです。
定員6名のコテージも5棟あります。料金は日帰りが6千円から、1泊が1万2千円からです。所在地は福島県伊達市霊山町石田字宝司沢9番地1です。
霊山こどもの村は3月下旬から12月中旬まで営業
紅彩館の隣には、霊山の南麓に広がる霊山こどもの村があります。JR福島駅から車で50分ほどの場所です。中にある「遊びと学びのミュージアム」は、体験しながら学べる本格的なチルドレンズ・ミュージアムとしては、日本で最初の施設とされています。霊山こどもの村の営業は3月下旬から12月中旬までで、水曜日が休みです(祝日の場合は営業)。
霊山の紅葉と岩峰は、10月下旬から11月上旬の周回登山で楽しめる
霊山は、標高825メートルで伊達市と相馬市の境に立つ山です。玄武岩質の岩峰が並び、紅葉の見頃は例年10月下旬から11月上旬です。登山口からの周回では、蟻ノ戸渡りや弁天岩、日暮岩といった岩場をめぐります。霊山寺跡や霊山城跡、霊山神社も同じ山の中にあります。








